中薗宗眞『メジロの宿帳』―無断転記ヲ禁ズ−

自:平成15年(2003)1月17日 至:同年2月21日

 

1月17日

 まずは自分自身に「今日の一日ご苦労様」を、缶ビールで乾杯!

さて、吾が宿に珍客が到来した。仏壇のまえで、何やらゴソゴソと物音がするのは竹の鳥篭(とりかご)からだ。さてその、珍客のことだが、つぶらな瞳の周りを白く縁取っている小鳥だから、メジロに間違いはない。しかし、雄雌の判別は、チョット、このわたしには困難すぎる。だから、メジロは目白である。 

ま、いずれにせよ、ことの末は次の通りだ。お昼時、あるところに売掛金回収にでかけた帰り道、鹿児島市は堀江町の歩道のド真ん中に、そのメジロはうずくまっていた。わが片手を差出すが逃げる風ではない。わたしは乗りかけの自転車を片腹に置いて、寒さと腹ペコに打ち震える窮鳥を拾い抱え上げた。そのメジロの尻尾は、尻からとぎれて無かった。小鳥を右手でつかみ作務衣の懐に素早くおさめた。

わたしは危険を承知で左片手ハンドルだけで家路についた。はて、どうしたものかメジロは飼うことを禁じられている鳥であろう、そのことは風聞で知っている。しかし、野に放てばたちまち野良猫の餌食になることは目に見えている。そこで、市役所に電話をいれてみた。環境総務課の女性が応答にでて「しばらくは様子をみてメジロの回復を待ったのち、放鳥されてはいかがでしょう。飼う場合は許可が必要ですよ」という事の次第であった。

 メジロを仮の箱に収めてから、近くの雑貨デパートのペット用品売り場へ出向き、てごろな竹の鳥篭を購入した。2150円(消費税抜き)だった。売掛金の回収金額は1890円だったのだから、手足のついた鳥代が高くついたものだ。                     最初、リンゴの摺りおろし汁と真水をあたえると、りんご汁に鋭いクチバシを浸けた。数時間は鳴かぬままだった。ミカンを輪切りにして籠の中央においてみた。距離を置いて眺めてみる。すると、盛んにミカンの果肉をついばみ始めた。小鳥の溜息かとも聴き取れるほどの、微かな「チー」という鳴き声を初めて耳にした。たぶん小鳥もホットひと安心したのだろう。野鳥の鳴き声に、時折、呼応して、甲高い鳴き声を発するようになった。

そうなると、空を飛ぶ小さな生き物に、何かしらの愛情のようなものが、わたしの心に芽生えてきた。いっそのこと許可を得て飼ってみようかしらと思いつつ、缶ビールの残りを飲み干した。

 

1月18日(土)

茹でたサツマイモを裏漉して、水で薄めてエサとする。ミカンはよく食べる。

柳元社中初釜・柳祥庵・「二畳台目・濃茶代点」・掛物・裏千家十五代・鳳雲斎筆『佳辰』

 

1月20日

 ペットのことで家内と口論:衛生上の観点からペットを飼うことを日頃から口やましく禁じているこの私に対する非難:酉(トリ)年の娘は大笑い。

 

1月21日

朝・水をかけてやる。ストーブで乾かすが、火に近過ぎると焼き鳥になるので要注意。さんさんと太陽がてるので、玄関のひさしに鳥籠を持ち出して、日光浴。霧吹きで、温めの水を再度かけてみる。陽が西に向いたころ茶室へ取り込む。ミカンをまたやる。ご苦労にも、自転車を跳ばして買ってきた市販のスリエには目もくれない。

 

1月22日

エサの取替え中、メジロがスルリと籠から抜けて、隣の食堂に飛んで逃げた。ドアを閉め、追いかけっこが始まる。「こら逃げるな、待て、ほら早くこっちに来ないか・・・」などと日頃のわたしにしては艶っぽい声をだしながら、メジロを追いかけていた。と、そこへ買い物から帰ってきた女房が「女でも隠しているのかと思ったわ」などと、まったく冷やかされたものだ。

 

1月25日(土)

10時半過ぎ、城山(西郷さんの洞窟前)の長寿泉に入浴。湯をペットボトルに詰めて持ち帰る。それを霧吹きに移し、メジロの湯浴みと洒落る。好天気なので温泉水を浴びて鳥の心持ちがよさそう。そこへ尾のあるメジロ君が一匹、篭の近くまでやってきた。ところで、閑話休題だが、先月応募したファミリーマートの抽選でプリペイドカード2000円分が当った。金額は端(はした)でも今年はラッキー、宿のメジロの恩返し?などと思ったりもして。

 

1月27日(火)

わたしのホームページの「春の写真」をどうぞ御覧あれ、青々とした「青モミジ」が左端の木である。隣が「花ズオウ」、その右に見ゆるは「オハラハー櫻島」ではなく目にも鮮やかな『千代ツツジ(40年前、両親が種子島から移植した)』、以上の樹木を「四つ目垣」で囲んである。そして竹で編んだ猿戸(さるど)を開ければ、御貴人様の靴脱ぎ石と丸灯篭がある。宿の青モミジの小枝に竹(岐阜・大垣の柿羊羹の器を利用)で、俄か作りの餌場を設けた。その上に半分に切ったミカンを数個載せてみる。と、土曜日に訪問した一匹のメジロがやってきて試食に現れた。気に入ったみたいで、こちらとしても大満足。

 

1月29日(水)

 朝8時過ぎ、粉雪が舞い始めた。青モミジに雪の花が降りかかって、白梅の樹のようになった。寒風の吹きすさぶ中でも、窓外のメジロはミカンの果肉を無心についばんでいる。昨夕、76歳の母の話で「茹で卵の黄身と菜っ葉を磨り潰して与えると、美声になるという。メジロ飼いの名人に、かつて聞いた・・・」と言うので、今朝はその通りにしてみた。運良く、擂鉢の近くに蜂蜜の瓶があったので、それも少し加えてみることにした。

メジロの鳴き声は、じつに変化の富んだ調子(トーン)があって、《チーツィー、チュチュ、チュルチュルチュ、チーッ、キョキョ・・・ギャぁ?》など、聴き耳をたてていると、なかなか面白い。一羽のお友達が近くまで飛来してくると、二匹でオーネット・コールマンばりの(ニュージャズの先駆者・どちらかいうと、わたしはジョン・コルトレーン、キャノンボール・アダレイ、ソニー・ロリンズなどのサックスを好む。おやおや飛んだ路地裏・横丁に迷い込んだものだが)、ジャムセッションを始めた。それは、それは、今まで聴いたことも無い素晴らしい即興競演だった。

 午後3時、真向かいに住むNさん宅の娘がM小学校から、制服姿にオレンジ色の帽子をかぶり、赤いランドセルを背負って下校してきた。少女は自宅玄関の脇で、わが宿の木に止まるメジロを見つけた。と、彼女は片足をいきなり持ち上げ、相撲取りのシコを踏むしぐさで、ドスンと足を下ろし、小鳥を威嚇したのだった。が、くだんのメジロ君はすこしもたじろがずミカンを賞味しているのだ。地団太を踏んだかに見えた少女は玄関の内に姿を消した。やがて、二階の窓の明かりが灯ると、スリガラスの窓が音も無く開いた。お母さんと一緒にミミズクのような可愛らしい丸顔をだした。彼女たちもまたバードウォッチングを始めたのだ。

 午後4時、青モミジの隣の花ズオウの木に、その天辺に大きな鳥の影をとらえた。カラス?と一瞬思った。メジロは追い払われ、その鳥に餌場を奪われた。玄関脇の小窓から観察していると、傍若無人といった態でミカンの果肉をほしいままにしたのだ。その鳥はたぶん城山(鳥獣保護区・サンクチュアリ)に塒(ねぐら)をもつ「ヒヨドリ」であろう。分の悪いメジロに加勢をしてみたくなった。玄関脇の小窓をガタンと音をたてて開けると、サッと逃げた。すると、すかさずツツジの植え込みに身を潜めていたメジロが餌場に舞戻ってきてミカンを再び独り占めた。メジロは盛んに首を動かし上空を警戒しては、鋭い嘴を果肉に突きたてている。数羽のスズメが坪庭を訪れるが、ミカンを乗せた竹の餌場には見向きもしない。どうやら、お隣の南天の植え込みの根元に興味があるようだ。小鳥たちのもつ嘴の形状が物語るものに想像の羽をつけて飛翔させてみるのも愉快なことだ。

 

1月30日(木)

 朝7時半過ぎ、玄関脇の小窓を少し開けて、一眼レフ・カメラを構えてみたが、うまくシャッターが下りない。露出か?バッテリー不足か?昨日のヒヨドリが舞い降りてきた。と、同時にカメラが作動した。その微かな物音に驚いて飛び去る。するとまた今度は抹茶色のメジロ君の出番だ。よくよく観察すると、いつものメジロではないような気がする。いつものメジロ君は小太りして、嘴(くちばし)の付け根にトサカのような羽毛が爪のように伸びていた。今朝の小鳥はややスリムなような気がするのだ、が・・・? 宿のメジロのエサを作らなくちゃ。そこで、2個の卵を茹でる。一つは半熟で、自分の胃袋に与える。残りは固ゆでにして黄身だけを取り出し、裏ごし。昨日と同じやりかたである。

 午前10時まえ、徳之島のご婦人を車でY整形外科までご案内する。自称「潮風ストリート(北埠頭から城山までのほぼ直線道路)」の街路樹には山茶花(さざんか)が咲き乱れている。メジロなどの格好の餌場だから、易居町の路地裏をチョイト覗いた変りメジロ君が棲みついたわけだ。帰り道、雄大な桜島の雪化粧を見た。鹿児島に住む者の幸せの瞬間だ。鶴丸城の苔むした石垣の色が「メジロ」の色合いに見えた。

帰宅したわたしは清々しい心持を持続させながら、朽ちかかる猿戸のついた坪庭を清掃した。餌場の残飯を取り除いて、ジューシーなミカンと取り替えた。網入りのガラス窓に水をかけると、透明になって内側が透けて見える。雪見障子を開けていたので、茶室の床前にかざった鳥篭もよく視える。ツツジの葉の茂みに潜んでいたメジロがまたぞろ騒いだ。

アレッ!と思うより速く、窓外のメジロ君はガラス戸にむかって打ち合った。だ、だいじょうぶ、かしら?それよりも、クロネコが徘徊しているから要チュー意!案の定、黒の野良猫が木の枝に鋭いツメを伸ばした。間一髪、矢のような尾を持ったメジロ君は難を逃れた。危ない、危ない。

 今年の正月五日、わたしは五十五の歳を迎えた。鹿児島の市街地は十六年ぶりの大雪に凍えた。が、その十六年前の同じ日は、今年よりも雪の多く降り積もった年だった。前年の師走、宿の玄関脇に四畳半本勝手の茶室を設け、裏千家茶道の師匠・柳元宗芳先生を正客にお迎えして、塗り壁もまだ乾かない真新しい茶席を祝っていただいた。年明けての正月五日、子供たちと雪見の茶を点てて遊んだ。水差に初雪を入れたかどうか?その記憶はないが、しんしんと降積もる雪の白さと、炉中の炭火が燃え尽きようと白い灰(じょ)をかぶり、残り火が赤々と命の炎のように見えるのは、涙がこぼれるほど美しい。

 思い出は後回しにして、五寸と二寸五分の炭を切る。炭斗(すみと)がいっぱいになる密かな喜び。訪ねくる人もいないが、「菊池正直造・塩屋釜」に大重谷で汲んだ名水を入れて、湯を沸かす。湯が沸けば、茶を点てて床の仏壇に供え、われもまた祖仏とともに茶を喫す。茶室は半ば私の隠居のような居場所となりつつある。夕刻になり炉火が落ちれば、その湯で焼酎を割る。釜を湯仕舞いして乾かし、炉中の灰を掬い、蓋をする。布団をしいてひとり寝る。禅僧でも茶人でもないので、茶室に扁額はないが、『一合庵』とだけ紹介しておこう。

 さて、竹篭のメジロの温泉浴(霧吹きでかける)と日光浴。二階の窓影から様子を見ていると、そこへ近寄る窓外のメジロ君。遂に、ご対面!篭のうえに飛び乗って、チュルチュルミチュルの会話で、果てな、なんと言ってるの?ア、ア悔し!せっかくのシャッターチャンスを逃してしまった。

 

平成15年2月1日の朝は雨で明けた。

昨日は釜を掛けなかった。風流事は後回しにして、やるべき事があった。鹿児島県・観光広報係から送付された「ホテル・旅館国籍別宿泊統計調査表(平成14年)」を仕上げることだ。日頃の怠惰な自分が情けない。昨年度は、外国人旅行者の約一千名の延べ滞在があった。今年はどうなるだろう、世界の情勢がギクシャクしている昨今の状況に不安がよぎる。大徳寺・太玄和尚筆『心外無別法』の掛軸を、床脇の壁中央に一ヶ月かけていたが、二月も引き継いで掛けておこう。

 まことに暇な時ほど忙しいという椿事(ちんじ)が続いている。朝7時半ごろ「ヒーヨ、ヒーヨ」と餌を催促するヒヨドリの声。玄関を開けて、雨空を見上げると二羽の大鳥の影が消え、お隣の南天の茂みからもスズメ達が飛び去った。そこには何かのお宝か、と思えば何の重大事ではない。玄米茶に混ざって、捨てられた玄米そのものがふやけた代物だった。四畳半茶室の寝床をあげて、箒で室内を掃き清め、ニジリ戸前の客畳(きゃくだたみ)一畳に青モーセンを敷いて、そこを屏風で囲う。床まえの貴人畳(きじんだたみ)には、かつて甲冑を入れてあった空箱の上が、文机であったものの、いまのメジロの竹篭に占有された。夜中には風呂敷と綿入れのドテラをかぶせているが、朝がくれば、それを取り外して篭の清掃。それが済めば、美声がでるようにと特別食の仕度。と同時に三個の炭火をおこし、炉中の種火とする。8時半になって、青モミジの餌場にミカンの餌を置いた。ストーブに乗せていた湯を塩屋釜に注ぎ、五徳(ごとく)の上に据える。昨夕の炊き込み飯を朝食としたのが、やっとの九時すぎだった。

宿のメジロの声が、いつになく澄んだ高い声がでているように思うのは気のせいだろうか。抹茶ではなく、至極ふつうの緑茶をいれて、窓外を眺めると「あれまあ、なつかしい。鶏冠(とさか)の君の姿が!朝食の最中」。窓の内と外でなにやら朝のご挨拶。フム、フム、霧島まで二泊三日の温泉旅行だったと

午前10時半、シドニーから予約のFAX(最近はEメールが主流)。炉火が崩れているので、三個の炭を足す。

ところで、客畳の毛氈に置いた煙草盆(たばこぼん)ひとつでも、わが思い出は尽きない。形は枡形で丸窓が明いているので、持ち運びが良い。

材質は紫檀である。実は、むかし「白鳩通り」に面して何某の松竹さんの広大な屋敷が取り壊されたさい、バラバラになっていたのを拾い集めて組み立て、もとの立派な姿にリサイクル出来た。嬉しいことに、灰吹(はいふき・新年のミニ門松の青竹を利用して作り、中に水を少しだけ入れておく)その灰吹立てまで付いていた。松竹さんはよほどの愛煙家だったのだろう。因みに、わたしは結婚と同時に禁煙して約27年になる。

それはさておき、先月と同様の火入は「石神博さんの赤絵」に菱灰(ひしばい)。時折、桜島に見立てて灰筋の稽古事。石神博さんの御名前でインターネットの検索にかけてみた。数年まえの工芸展に彼の名をなつかしく発見した。鹿児島市・紫原というところで、珍しくも磁器を焼いていた作家であるが、鹿児島を引払い、絵画の個展を東京で開いていたと風の噂に聞いた。長身の博(ひろし)さんのお顔とお声が思い起こされる。彼が作ったグイノミで酒を呑むこともある。鳳凰の絵を得意とされた。大皿などは、和洋中いずれの料理や果物など盛り付けて映える。さて、肝心の煙草入れは披瀝するほどのものではないが、中身のキザミ煙草だけは17年前の代物で香りは消し飛んでいるから、呆れたものだ。

なぜ、人はこの四畳半が「持仏」の茶室になったのか?訝しく思うことだろう。詳(つまびら)かに話せば長い物語だが、手短に言えば、わたしの酒癖にあきれた家内が、西の間に据えてあった仏壇を抱えて茶室に運び入れたのである。19の頃から呑み始めて37年!あー、わが身体は、酒樽だったのか!一升から五合、三合から二合。最近では酒量が落ちてきたが、晩酌は一合五勺。なるほど、それで理想は『一合庵』かと、合点がいく。床柱は皮付きの桜の丸太。落とし掛けが、三節の煤竹(甲付川沿いのT竹材店で見つけ、売らないという老婦人にメジロの如く鳴きついて手に入れた)。ちょうど一節だけ、床の寸法より長過ぎたので格好の花入れを作くることが出来た。それは、床柱の掛花釘にいまは花も水さえ無く鎮座している。煤竹が黒光りするのに150年から200年はかかると聞いたことがある。「宝暦のころは、筍か青竹だったのか!」と感慨深いものがある。

読み手のあなたは、さっそくインターネットの検索で『宝暦治水(ほうれきちすい)』をご覧遊ばせ。その間に、我輩は昼飯と行く。デミタスのコーヒーカップにいれる「特別メジロ定食」も作らないと大変だ。二時間ごとに炭火も足さないと、ヒーヨヒーヨとヒヨドリが鳴いている。

「ま、お茶いっぷく、どうぞ。コンビニで買ったアーモンド・チョコレートと餡入りマシュマロしかないがのう」。

その宝暦治水で思い起こすことは、生まれ育った種子島のとある村で、報恩講のような集いが村長宅で催されていたように想うのだが、幼少の頃のわたしは、そこで初めて紙芝居というものを目にした。宝暦治水が難業苦行の末、薩摩の武士の力で成し遂げられたというドラマであった。成人してからは、歴史小説『弧愁の岸(杉本苑子著)』を読み感動した。

鹿児島市の岩崎谷下・長田町にある「高野山最大乗院(アーチの石門・弘法大師の尊像・羅漢の像がユニーク)」の門前近く、祖父母が『中薗旅館』の看板を掲げた。種子島の小学校を卒業したわたしは、親元を離れて鹿児島に渡り、祖父母の保護のもとで長田中学に学んだ。鹿児島の言葉は外国語のように聞こえてきたものだった。中学時代の回想は後日に後回しとするが、やがて祖父母と両親は協力して、港町の近くに売りに出ていた沖縄関係の旅館を購入した。  

ほぼ四十年まえ、種子島に残留していた家族全員が島を離れ、鹿児島市易居町の路地裏の宿で暮らし始めた時代は、まさしく日本経済の成長期だった。旅客は巷(ちまた)にあふれ、旅館は繁盛していた。祖父母は本館の隣に別館を建て、主に甑島の客をとった。(ご先祖は明治時代におきた甑島の飢饉のためやむなく種子島に集団移住した。それは郷土史をひもとくと餓死するものもでたという驚愕するほどの状況であり、ご先祖のご苦労に涙を禁じえない)。

鹿児島高校を昭和41年に卒業して、国際商科大学(現・東京国際大学)の2期生となった。当時は、塩田正志教授の「観光経済学」を学んだ。先生には、柴田書店から刊行したイタリア・ワインに関する著作がある。大学時代はモダンジャズと大学紛争の時代だった。わたしは社会の喧騒を離れて、埼玉の安アパートの四畳半で独りビリー・ホリデーのブルースを聴きながら読書と酒に溺れた。そこへ佐渡島出身の友人・K君が東京から転がりこんで同居するようになると、酒盛は夜明けを迎えるまで続いた。就職試験は、へべれけの酩酊状態で受けた。就職先は霧島の林田温泉だった。林田社長は東京銀座のオフィスで「お前は一年してホテルをやめるだろう」と予言した。果たして、その通り。両親の都合で家業に呼び戻された。その後、林田社長は他界され、県下観光産業の大手である岩崎グループの傘下となり、現在は「霧島いわさきホテル」と銘打ってリニュアル営業を再開しているところだ。

縁とは不思議なもので、長男は地元の大学卒業後、彼の就職先が同ホテルへと配属された。彼は父の都合で、ホテルマンの仕事に打ち込んでいる。彼は父より出来た息子だ。愚かな父をもつと子供が苦労する。その逆もまた真である・・・。

 次第に話しが横道にそれて行くような気がしているのだが、良寛さんも宝暦の時代を生きていた禅僧である。あまたに万巻の書があるけれど、真実の言葉はただひとつ「如実に己の心を知れ」と漢詩を書き残した。「形見とて なにか残さむ 春は花 夏ホトトキス 秋は もみじ葉」と歌う。「あなたは一体この世になにを残されるのか?」と、わが人生の秋に深く問いかけてくる。その答えを導きだすために、自分なりに生きてきた証が一冊の私家版となった。

ホームページに掲載してある英文の原稿を、三人の外国人・英語教師に添削していただいて、新たな章を冒頭に加えた。本の題名は『Shiokaze Street(しおかぜ ストリート)』である。市内の印刷所に高校の同級生H君が専務をしているので、かなりのご無理をお願いした。それはワールドカップが開催される昨年の六月のことである。明日という日があるなら、その内容に触れてみることにしよう。炉に松風の音はすでに無く、釜の湯気の勢いも途絶えた。だが、思い出はまだ微かにゆらめいている。あとは一合五勺の焼酎が、俺を待っている。

 

郷土史・参照【第40章 種子島移住】・「鹿児島百年(中)明治編・南日本新聞社編(春苑堂書店)」

 

2月2日(日)

「メジロよ、めじろ、朝がまた来た。元気でいるか?」

宿の小鳥たちは、コトリとも音さえしないねえ。早朝の路地裏を散歩の途中、隣の空地(平成13年の初冬、鹿児島税務署が荒田町へ移転。もとの建物は壊され、いまは金網に囲まれている)ところに、白と黒のコントラストが美しい一羽の四十雀(シジュウカラ)が遊んでいた。近寄ると、城山の方角へ羽ばたいて逃げた。そこで、発句した。

「シジュウカラ ゴジュウカラ わたしの人生五十五から」 宗眞

 

路の境界に沿って、スミレの花を母が移植したのをみて、8年前に作ったわが句を思い出した。

 

「 人知れず  咲く花の命  スミレかな 」 宗眞

 

スミレの替わりに 路傍でふとみつけた花の名を 口ずさむのも 余興かな。

わが宿からは市役所に翻る国旗も良く見える。6階建ての南日本新聞会館は移転していまだに伽藍堂のままだ。税務署だった空地に自然と草木が伸びていたが、ほとんど冬枯れている。ときどき数十羽のスズメ達が舞い降りる。すかさず猫たちが忍び足ですり寄る。散歩している路地はもともと浄土宗・不断光院の土地であり、お寺の真後ろにある住居のための「みなし道路」なのだ。ということは、わが宿屋は寺の境内にあるということになる。大晦日、宿に滞在していた屋久島のALT(英語指導助手)のフランシスさんと四国のお友達・フィオナさんを裏の鐘楼までお誘いして除夜の鐘を打ち、彼女たちとシャンパンで2003年の新年を祝った。「つつがなく暮らしておいでだろうか。またお会いしたいものですね」。電車道からは、車の進入は出来ない。「Shiokaze Street」からが唯一、車一台が通ることの可能な路地裏であることだ。そこを「メジロ横丁」に命名しようかと道すがら想いつつ、ふと足元に目を寄せると、やはり母の言ったとおり、植えたブロッコリーの葉っぱが、ぎざぎざ模様になって、ヒヨドリに齧(かじ)られているのを発見した。パセリや春菊などの香草には口箸をつけていない。

 身もこころも青く染まりそうな青空、今日こそは休釜(きゅうふ)・休肝(肝臓をやすめる)を誓った。茶室の窓をあけて、二月二日の風と陽を入れる。篭のメジロを玄関の屋根にあげて、霧吹きの水浴と日光浴。すると、鶏冠の無いメジロが飛んできて、篭の天井に飛び乗ると、右往左往の運動会よろしく跳ね回るも、なんと戯れているものやら。尾の無いメジロに尾は生えないにちがいないが、いつまでもメジロの自由を奪うことは、わたしには出来ない。

 

 

階下へ降りると、「とりあえず一泊の予定でお願いします」とやってきた英国の青年が浴衣姿で急須をもち、玄関のストーブのヤカンの湯を汲もうとしていた。急須のなかは昨夜のお茶葉の出がしだろうから、新しい茶の葉を入れてやろうとすると、「もう一泊いいか」と英語で言うから、屋根のメジロが「チュル」と喜ぶ。

玄関の壁には縦長の強化ガラス(約27cm×53m)をはめ、内から坪庭と「メジロ横丁」が透けて見える。連泊を申し出た英国の青年とは、昨日の三時過ぎ、西鹿児島駅(新幹線がやがて開通するので鹿児島中央駅となる)の観光案内所まで、彼とその女友達で、わたしは車で出迎えに行った。そこからまた電車に沿って、宿屋までの道案内。玄関の格子戸を開けて中へ入ると、すかさずキャンプで使う折りたたみの椅子を彼らのまえに用意して「ここからバードウォッチングが出来ますよ」と、さも前々からあったような得意満面のアゴヒゲ面を亭主はして、強化ガラス越しに青もみじの木を指差したのだった。

すると、イギリスの青年は「グレート!」とのたまう。傍らの友人は日本女性で、つぶらな黒い瞳を小鳥のように輝かせて「どんな鳥?」。亭主は「メジロ」と答えて、はたと困った。「メジロ」を英語でなんという。・・・「スズメも来ます」と慌てて言いながら、スズメを英語でなんといったか亭主には思い出せない。すると、青年は手にした和英辞典を開いて「Sparrow」と啼いた。さすが本場の小鳥は違う!とそのとき亭主は感心したものだ。

 

2月3日(節分)

白髪の日増しに増えてくる頭に日本タオルの鉢巻しめて、小鳥の餌をつくる。坪庭の餌場を清掃して、水を撒いていると、宿のメジロが中からケラケラ笑う。少しは断酒の意思があったものだ。昨晩は一滴も呑まなかった。今夜はまたぞろ呑めると体の調子がよい。茶室の水屋(床の裏側)へ渡る畳廊下に卓袱台を置いてあるのだが、ノート型パソコンとプリンターを置いてある。その机の下に、寒中梅の酒の空瓶がゴロンと転がっている。

なぜ自分は酒・焼酎を呑むのか、何かを忘れるために酒の力を借りてきたのか、忘れなければならないほどの何物かが己の心底には潜んでいるのか、まだ見極めのつかない自分がいる。

朝がほのぼの明けるころ、雪見障子の紙に時雨模様の文字が浮き出てくる。或る晩、酔った勢いで小筆を走らせた墨の跡が、なぜか悲しく見えて来る時がある。求道の俳人・山頭火の句集から拾い集めた俳句のひとつに、

「 しぐるるや 死なないで いる 」という自由律の句がある。

もし、仮にそこを「 ・・ 死ねないで いる 」となると、これはまた重大な様相を帯びたものとなる。

ふと、炉をのぞくと炭火が崩れている。種火をいれてから約一時(いっとき・二時間)が経過していることだろう。手取り炭斗の炭(二寸五分の丸ぎっちょ)が切れている。と、そこへ宿泊者の英国青年が階下へ降りてきたので、茶室の火頭口のドアをあけて応対にでた。金髪の産毛(うぶげ)が髭のように生えた口元から「ワンモア ナイト!オーケー?」の申し出があった。「ショアー・ノー、プロブレム。ドウモ、アリガトウ」と答えると、口ひげの青年は微笑んで、フロント横の鏡に貼り付けてある新聞記事のコピーを指差し「昨夜、二階のロビーで、あなたの物語を読んで感銘をうけた。一冊、記念に持ち帰りたいが、手元にあるか」と流暢な英語尋ねてきた。

 2002年(平成14年)6月27日付・南日本新聞「夕刊・社会 / NEWS」のコピーが、イギリス青年の興味を惹いたのだろう。記事に掲載された二枚の写真の説明を求めてきた。記事の見出しは『潮風天国へ届け(鹿児島気に入り滞在2カ月)』とある。一枚目は、印刷したての新書サイズの全文英語翻訳本『Shiokaze Street』を両手に、はにかんで座る著者の「わたし」。あとの一枚こそは、1994年(平成6年)の初冬、死に場所を求め鹿児島にやって来た独りのドイツ人の物語なのだが、我が宿に71泊もの長期滞在の後、異国の空の下で自らの命の花を散らした孤独な旅人「ハンス・ロック氏(故)」、傍らに彼の親友「ユージン・ケリー氏」が赤ワイン・グラスで乾杯しているスナップ写真である。この宿屋に泊まる外人さんが一冊求めれば、630円で提供している。自分の生命保険を解約してまで自費出版を果たす亭主に、愛想をつかす妻の気持ちも解からないではない。それでも家内は或る日、日本語の上手な外人女性を青モミジの下で見送るついでに、本を求めていく感想を尋ねてみることがあった。その答えをここに導きだすことはあるまい。わたしは、あなたにこれ以上の説明をしないでおこう。

もしも、あなたが『Shiokaze Street』を英文で読んでみたいと思うならば、日本国内の送料切手代が3冊まで120円もかかるから、送料を加えるならば一冊が750円となる。学生さんの場合は、学割も考慮しようと思うが、この中薗宗眞『メジロの宿帳』の「読後感想」を付け加えることが一つの条件である、といえば面白いアイデアではないだろうか。

Eメール: shindon@satsuma.ne.jp

 

或る知り合いの若者に電話をかけてみた。彼は同業の二代目であるが、最近、彼のHP(ホームページ)がインフォ・サツマ(プロバイダー)に見当たらないので、どうしたのだろうと思ったのだ。

先に結論を述べると、「光ファイバーに変えました」と言うではないか。「な、なに、それ?今夜、さっそくお話を聞かせてください」というような訳で、節分の夜「鬼」となって宿から追い出されたのではないが、彼の経営するビジネスホテルへ自転車(ママ・チャリ)のペダルをこいだ。

それは北海道から鹿児島まで約1ケ月かけて旅をした代物であるが、乗り主の外人さんが「もう要らない」というので、千円札一枚を与えたら大変喜ばれた新中古のツワモノだ。わが宿の易居町から、市役所前・港大通り公園をぬけて、名山町の海岸沿いを南下して、泉町のとある細い路地に入る。『ヤングインかごしま』の看板に灯はなく、周りをオフ・シーズンの闇が支配していた。

しかし、一階の居酒屋『ぼっけもん』の明かりだけは仄かについていた。が、客の居る気配はなかった。彼のお袋さんだけが調理場に立っているのをみとめた。自転車を置いて、中に入ると、わたしが「鬼」ではなく「福の神」として、追い払われなどしなかった。

囲炉裏のテーブルがポツンと置かれて、周りに座椅子がある。わたしは調理場のお袋さんに「だれやめセット¥1.000なり」を頼み、腰をおろした。

かごしま弁で「ぼっけもん」とは明治維新を成し遂げるような薩摩っ子をいう、また「だれやめ」とは、晩酌で疲れが止むとでも解釈しておこう。お袋さんは「中薗さんが来ているから、降りておいで」と内線で階上の息子を呼んだ。

囲炉裏に炭火がたかれて、瓶掛けがあるのは気分が安らぐ。近くにストーブが焚いてあり、暖をとる白猫が燃え尽きたあとの木炭のように横たわっていた。ふと、わたしの眼は居酒屋の隅にあった「鹿児島木炭」の紙袋に気をとられて、立ち上がり、「わが宿の木炭は熊本産だが・・」と、袋の中身をのぞいてみようかしらと、足を数歩くりだした。ところが、老いた猫の尻尾を不注意にも踏んでしまった。猫は首をピクリとさせたが、ニャアの一言のご挨拶もなかった。

「ん?・・死なないで、居る」と呟いたとき、本田吉盛さんが黒胡麻を口の周りに振りかけたと思うほどの無精髭で、降りてきて言った「20数年、飼ってきましたが、もう間もなくお迎えでしょう」。

わたしは椅子に座りなおして「今夜は、ビールでいきましょう。どうですか、景気のほうは?」と尋ねた。

「なかなか、きびしいですね。正月明けてから節分まで、パッタリ、客足が途絶えて、お客さまの無い日が多かったですね。先輩のところは外人さんで満杯でしょう?」

「正直なところ、似たり寄ったりです。知恵は絞るのですが、結果がでません」

話題は、「光ファイバー」ではなかった。小柄なお袋さんが調理場のカウンター越しに、地鶏の刺身を盛り付けた長皿を、息子の吉盛さんに手渡した。三十代の彼は独身で、酒もタバコもやらず、幼少のころからパソコンを組み立てるような人で、数年前、父親を脳溢血で亡くし、親子二人だけでホテルを切り盛りしている。わたしは、ビールの杯をひとり煽りながら、なんとかして、オフ・シーズンの打開策を見つけなくてはという思いで、「旅のあり方が、いまの日本人と外国人とは違いますものね」と、再び話を切り出した。

「ええ、わたしどもには温泉などありませんし、素泊まり3500円から4000円程度の止まり木のような宿ですから。でも、いつだったか、一人の若い女性が、ふらりとやって来て、海外旅行には飽きたというのです。気のむくまま、県下のあちこちを、温泉めぐりしては連泊して、また、ふらりと帰っていきました。旅なれた感じで、荷物も少なく、カッコよかったですね」
「まるで、その女性の旅のありようは、自由きままな外国人たちとまったく同じじゃないですか」とわたしは感嘆すると同時に、「これだ!」と思った。

設備のととのった豪華なホテルでも旅館でもない、上げ膳下げ膳のサービスは期待でない。ましてわが宿は十室で食事なし。共同の洗面所。ただし24時間利用できるシャワー室。無料の全自動ランドリー。ただし、ガス乾燥機は有料。門限なし・・・連泊だけが、可能な料金設定。「しかし、海外で旅のありかたを変えた日本女性がいるはずだ。そうした彼女たちに私たちのカゴシマをHPで紹介しようじゃないか!」

わたしは本田さんに「自分のHP上に日本語のページを設けたいので、協力してもらえないだろうか?できたら、あなたの実名を明記しても構わないか?」

と相談をもちかけた。

「どうぞ。よろこんで、お受けいたします。」

吉盛さんは五徳に金網をのせて、鯵の干物を炭火で焼いた。

眼鏡をかけた小柄なお袋さんに「焼酎」を頼んだ。

県下、焼酎の銘柄は800(後ほど訂正)を越えるという。全部を試飲したわけではないが、なかでも「桜島(本坊酒造)」は、わたしの身体に適合する。新酒の時期の一升瓶は、あの世にぶらさげて、会いたい故人と酒盛りがしたいほど応えられない。

酒棚は、「ぼっけもん」の徳利と「桜島」が、マグマを噴出すほどに並んでいた。吉盛さんは何を思ったものか、やおら立ち上がって、宿にはこんなものがありますと、奥から風炉つきの茶釜を持ち出してきた。どうみても小習い用のブンブク茶釜に間違いはないが。

「なんで、こんなものが家に在るのだろう?」と吉盛さんは首をかしげている。すると、調理場に立つメガネのお袋さんは、「そうね、お前が産まれる前のものだから、お前に判るわけがないわね」と言い放ち、メジロのように笑うのだった。そこへ、わたしの携帯電話が鳴り「お客さまよ、速く帰ってきて」とのこと。焼酎を飲み残した「ぼっけもん」の徳利に後ろ髪をひかれる想いで「それでは、また」と本田さんの宿をあとにして、再び同じルートを北上して、わが宿についた。

 

「 極道の家でも 豆まく 福は内 」 宗眞

「 ほろほろと 酔うて 自転車 豆を割る 」 宗眞

 

宿に帰ると、家内が「まあいいから、テーブルに おつきなさい」という。

わたしは戸棚から「桜島」を取り出し、お湯割りで呑んでいると、オーブンから洋風のスープが二個も出てきた。「オニオン、それからクリームのパイ皮包みです。どうぞ、召し上がれ。茸(きのこ)のおうちみたいに膨らませるのって、意外と難しいのね」。

 わたしは妻の突拍子もない優しさに戸惑いながら「おいしいね、よく出来ている」と正直な感想を述べ、瞬間、こころに涙ぐんだ。スープを平らげたところへ、例の連泊のカップルが帰還した。食事に行きたいというので、目と鼻の先にある『居酒屋・でんすけ』までご案内した。ご両人をカウンターに座らせて、わたしは勝手知った居酒屋の厨房にはいり、おしぼり、コップ、お箸、英文メニューをセットする。それから焼酎のキープ棚から自分のナンバーを付けた五合瓶「桜島」を取り出し、焼酎の飲み方のあれこれを伝授して「乾杯!」、もう、それ以上の邪魔はしない。「ぜひ、ご一緒に」と強いられれば、遠慮する理由はどこにも無い。

 

わたしは、かつて「鬼」をみたことがある。へべれけに酔った或る日の夜更け、わが宿の玄関の上がり框(かまち)にそれは腰をおろし、後姿の体躯は、まるでゴリラのようで、裸は剛毛におおわれ、肩を怒らせていた。陶器の花瓶が粉々に割れて、玄関に活けていた花も無残な有様だった。わたしは酔いも醒めて、木刀を振り上げ「コラッ!」と大声をあげ一喝した。身震いがするような凄まじい形相が振り返ってきた。後ずさりして、まともに「鬼」の顔をみた。

わたしは、その場に腰をぬかした。その顔こそは、まぎれもない自分の顔であった。愚かな自分にたいする憤怒の形相であった。わたしは、夢をみていたのだった。布団からとびあがり、ふらふらと部屋をでて、宿の玄関を見渡した。何も異状は無かった。その夢のあと、あまりの恐ろしさに四、五日は酒瓶に手がだせなかった。

 

「 椿おちて  酒天童子の  夢の跡 」 宗眞

 

2月5日

午前 10:05 

背中にリュックを背負い、トレッキング・シューズを履いて、わたしは旅人となる。メジロ横丁の宿をでて、自称「しおかぜストリート」を城山に向かって歩いてゆく。磯街道(国道10号線)の交差点を上る。そこは鶴丸城。1602年島津18代・家久による築城(天守閣の無い城)。冬枯れた蓮の茎が、戦いのあとの弓矢のように幾千も刺さっていた。わたしは俄の殿様気分で、大手門・御楼門跡から入り、現在は城跡が『鹿児島県・歴史資料センター黎明館』となる建物の正面に出て、北の御門から抜けようとしていたとき、蘇鉄とツツジの植え込みに囲われ、何かの碑と碑文が設けられているのに眼を留めた。

島津重豪(しげひで)が1827年、江戸高輪藩邸に建立した碑を、東京で発見、黎明館に寄贈された碑であるというが、「しゅうちんほうこ」と検索の欄に打ち込んでみると、網にかかってくる。『日本各地や海外の珍しい物産を収集し、草木を栽培し、鳥や動物を飼育したが、それは自然界の真理を知ろうとしたためである。云々』いやはやなんともスゴイ御考えだ。日常、見過ごしている世界を発見して、勉強になりました!

鳥の声が絶えず聞こえてくる北御門の前は、観光地周遊バス・シティビューの『薩摩義士碑前』のバス停でもある。既に、あなたは『宝暦治水』についての何たるかを学ばれたことであろうから、ここで余計な説明はしないが、治水工事の犠牲者の大半が宝暦4年(1754)から5年にかけて、8月がもっとも多く、9月がそれに続いていることが将棋の駒に似た墓碑から判るのだ。

「城山自然遊歩道」の道標がたっている右脇の石畳の階段を10段ほど登り、振り返れば、わが「しおかぜストリート」は映画のスクリーンを見ているような錯覚をもって眼前に迫ってくる。

石造りの常夜灯には「義烈泣鬼神」と揮毫した元帥伯爵・東郷平八郎の書風は武人のそれだ。その傘のうえから右手に鶴丸城、堀に映える桜はまだ蕾。左手には、いまだに生々しい西南戦争の弾丸ノ雨アラレが残る「私学校(明治7年、西郷どんが、開校。その3年後には激戦の舞台となる)」の石塀。現時点では国立病院・南九州循環器病センター。その真下・山下町には鹿児島県庁があったのだが、鴨池新町に移転後、県民交流センター(仮称)の新築工事がやがて完成も近い。正眼に構えれば、噴煙たなびく櫻島は、またもや雪化粧のまっただなか。そこから城山展望台まで(たったの海抜107mの高さ)だが、600種類もの植物が生えているという城山。

展望台では、10数名の観光客が記念写真を撮ろうとしていたので、シャッターを押してあげようと申し出た。果て?彼らが何処から来たものか聞きそびれた。

わたしは城山をそそくさとおり、車道に出た。二羽の「シジュウカラ」が道路の端で、首もとに黒色の三角巾をして、せわしい食事をしていた。

帰り道の途中、石仏十三体をみて、俳句する。

「 我もまた わが道を往くぞ 十三仏 」 宗眞 

西郷洞窟のバクチの大木をみて、詠む。

「 博打(バクチ)の 樹に哀れ みぞれ降る 」 宗眞

 

この日、リュックに詰めたものは、洗面道具に着替えの衣類だ。わが足は軽快に、岩崎谷の秘湯『湯乃山』へと向かう。泉質が「弱アルカリ性・ミョウバン泉の処女水」であり、ヤヤぬるめのヌメヌメとした効能は美人湯として定評がある。一畳も満たないタイルの浴槽だが個室風呂あり、家族湯あり、数奇屋風呂ありで一時間は500円で楽しめる。

その日、「開聞(かいもん)」の湯に浸る。そこを出て、腕時計をみると、ちょうど、12時05分。まるまる2時間の温泉付きトレッキングであったことだ。ミョウバン水をペットボトルに詰めた。はたして宿の小鳥は、・・・メジロ美人に、なるだろうか?

湯乃山温泉の坂道を降りていくと、梅の花が咲いていた。指でふれると、一輪が手の平にこぼれ落ちた。そこから、南洲翁(西郷隆盛)終焉の碑を訪ねた。

わたしは、手の中の一輪を碑のまえに手向け、般若心経を読経した。

「晋どん、もうよかごあんど。あの世で待っちょでな」と西郷どん、別府晋介の悔し涙にぬれた顔を見上げて微笑んだ。晋どんの、刀の光が愁風を切った。

1995年2月21日、ハンス・ロックさんは福岡で自らの命を絶った。享年65歳、孤独なドイツ人は、旅に生き、旅に死んだ。そして、このわたしは、同年3月19日、「しおかぜストリート」の散策の途中、神仏に導かれるようにして、この終焉の石碑のまえに立ち、ハンス・ロックさんの別れの声を聴いた。

Shin my friend, this is as far as I go」・・・「さよなら 眞一さん、わたしの友達・・・」

「あなたは、わたしに別れを言いたかったのか。なぜ、なぜ生きているうちに、あなたの胸のうちを明かしてはくれなかったのだ!」

わたしは心のなかで、見えざる彼の魂にむかって、叫んだ。

その日、四囲は静寂として、嗚咽にむせぶ自分がいた。

語り尽せない思いが、いまの私を文章に駆り立てているのかもしれない。

 

2月6日

温泉水を噴霧、それと日光浴。篭のうえに、メジロ一匹馬乗り。その間、ヒヨドリ一羽が、餌場を横取り、ミカンの皮を路上に放り投げて、エサの催促をする。「バーン!」と吾が手を叩いて、追い払う。メジロはすかさず、餌場に戻り、鬼のいぬまに果肉に食らいつく。

ところで、鹿児島の観光のあらましを検索される場合、英文と和文で構成されたHPをひとつ紹介しよう。「鹿児島国際化推進協議会」とキーワードを打ち込んで、検索してみてください。毎月、西野さんという有能な女性編集者により、発行されるニューズレター(英文)が二月号は「焼酎天国・The Kingdom of Shouchu」の特集で、鹿児島県には「112」もの焼酎工場があり「1150」の銘柄があると明記してある。まことに恐れ居入りました。問題は、それを毎晩 、毎晩、必要としている人間がいることだ!

 

2月7日

「朝食は、ペットが先になる」生活が続いていたが、今朝は、より早く小鳥たちよりもお先にご飯を頂いた。一月末から滞在している御婦人を車にのせて、整形外科Y病院までお送りする。ご主人の腰の手術が近く始まるので、付き添いのため徳之島から出てきたのだが、ご自身も膝に水がたまる病気を検査してもらうと言うので、それならいっそのこと同じベッドに入院されたらどうでしょう?と提案してみると苦笑された。車寄せの植え込みには「緑の泉」と銘打った近代的な立ち手水があり、温泉水がとろとろ流れ出ている。御婦人を毎朝お見送りのついでに、わたしは湯溜まりのなかに、1、2分、両手を浸してから、ふたたび運転して帰るのだ。お陰さまで、今年の冬は、アカギレが指先から消えた。

 

西郷隆盛・終焉の地から、岩崎谷にある鉄道の踏み切りを渡り、緩やかな下り坂に沿って長田町は真言宗・高野山最大乗院が、静かなたたずまいをみせている。その門前近く、当時(昭和35年・1960年)は私学校跡地の鹿児島大学・付属病院の隣で、腎臓結石に病みがちだった妻・サトのために、50代にして旅館業を興した祖父・弥十郎は、12歳の中学生の私にむかって「島民の足となれ」ということがあった。その時代は、自転車とリヤカーの時代だった。弥十郎は離島から病院に向かう島民の荷を乗せて、船の着いた港から旅館まで旅客を運んでくるのが常だった。昭和23年(1948年)種子島に生まれ落ちた私は親の生死にかかわる都合があって、乳飲み子のまま祖父母に預けられた。近隣の妊婦から授乳をうけ、あるいは山羊の乳で育てられた。祖母・サトはいたずら心から、わが乳房を赤ん坊のわたしの口に銜えさせてみたという。ちょうど乳歯の生えかけたころで、赤ん坊のお前は怒って、わたしの乳房を、ここのところを、噛み切っただよと、いっしょにお風呂に入りながら、ありもしない傷跡を孫のわたしに見せて、上機嫌なものだった。

種子島の方言と鹿児島のそれとは、島から出てきたばかりの私にとっては、まるで他国の言葉のようであり、独特な言語表現と発音の習得に苦労があった。

入学してまもなく、一学年の集団身体検査があった。保健体育室は、丸坊主の男子中学生がパンツ一丁の裸体で、押し合い圧しあいの有様だった。検査がある程度おわり、保健体育教諭の問診が個々にあった。陰湿な目をもった教諭は机を背にして椅子にすわり、胸板を両腕で隠そうとモジモジして立っている或る学生のパンツのなかに、無礼にも手を突っ込んで、学生の一物を捻り上げたのである。

「お前は、男か?玉は持っているのか!」と教諭は学生を怒鳴った。

その中学生こそは、誰あろうこの自分の過去の姿である。わたしの乳首の左下には、まるで手型を押し付けたような薄茶色の痣(あざ)がある。今は人前にさらしても平気だが、当時それは私にとって、誰にも知られたくない身体的コンプレックスであった。そのとき、私の頬は、羞恥心で赤く染まったにちがいない。

学生服に着替えて、保健室を出ると、他のクラスの同級生で、柔道部に入部したての男が、わたしを待ち受けていた。

「さっき、俺を後ろから押しただろう」と詰め寄ってきた。

わたしには、身に覚えがなった。濡れ衣だと思った。しかし、胸倉をつかまれて、校庭の砂場まで引きずり込まれた。たぶん、習いたての柔道の技をしかけ、羽交い絞めにしたのだろう。自分に抵抗できるほどの力や技を持ち合わせなかったのは、残念だが。

砂だらけの学生服をはらい、顔を水道水で洗った。悔し涙も、ともに流れた。その日一日、わたしは屈辱に耐えた。

悲しみの消えたある日のこと、校舎の階段で、その男とすれ違った。わたしは、一瞬、殺意を覚えた。後ろげりをして、階段から転げ落とし、彼を殺そうとした。だが、冷静な理性が、一瞬勝った。その日の昼休み、独り図書室に入った。そして、文学との出会いがあった。中学一年生の自分に理解できるほど、わたしの頭の構造はよくなかった。しかし、文学を志す鋭い眼光が、たとえ写真のものであっても、小さな魂の奥に突き刺さるものを感じた。作家の顔は「芥川龍之介」だったのである。その文学書は、いまなお手元にある。もちろん青年時代に古本屋でみつけたものであるが、「講談社版・日本現代文学全集56・芥川龍之介集」の表紙をめくるたびに、あの屈辱の日は、いまもなお芥川龍之介の『蜃気楼』のように揺らめいて甦る。

中学生のわたしは、祖父と同じ布団でやすむことがあった。宿には住み込みの歳若いお手伝いさんがひとり住み込みで働いていた。ある夜のこと、たぶん祖母サトが入院でもしていたのだろうか、祖父と私、そしてうら若い女性と一枚の布団のなかに川の字になってやすんだ。祖父が含み笑いを交えて、だがまじめに「シンイチと寝てみないか」と小声で女に語りかけたのを耳にした。それは、異性に目覚める瞬間であったのだが、

「 秘すれば、 花便り  鶯の啼く 」 宗眞

 

2月9日(日)

 湿っぽい話は、この程度に収めて、今日からは明るく生きましょう。

まさに春がやってきたような陽気だ。今夜で5泊目になる英国のミセス・シーマンさんというお方は、二年前の「おはら祭り」のころ、来鹿したことのあるリピーターの一人で片言の日本語を話される。薩摩焼の調査・研究をされているオックスフォード大学関係の学芸員らしいのだが、知り合いの子どもが東京大学に留学しており、明朝は上京するのだけど、電話連絡が付かないという。E-メールアドレスは在るけれど、と途方にくれた様子なので、よろしければ、わたしのパソコンをお使い下さいと、救いの手を差しのべた。

「それでは、お言葉にあまえまして。朝食の約束が近くの古美術店でありますので、それが済み次第お願いいたします」と、出かけて行った。わたしは素早く茶釜の用意をして、茶室で待っていた。一時間ほどして御帰館されたので、畳廊下のパソコンまでご案内して、素早く彼女の用件を済ませた。

「せっかくの機会ですから、どうぞお茶一服」と申し出て、シーマンさんを客畳の毛氈にすわらせると、正座が出来た。彼女は、初めて男子の点前作法を見るというので、抹茶の飲み方などを教授した。今日の予定は「明治維新ふるさと館」へ行くという。薩摩藩と英国とは1862年の8月におきた生麦村の不幸な事件「生麦事件」それから起こる一年後の「1863年7月・薩英戦争」そして「1868年・明治維新」へと、まるで渦(うず)をまいて轟(とどろ)いているような時代は、歴史に疎いといわれる若いアメリカ人でさえ興味があるのだ。

さまざまな観光目的をもって、鹿児島を訪れる外国人を観察していると、実に面白い。例えば、ロスアンジェルスにすむラジェロさんという80過ぎのご老人は、ガールフレンドを伴って、韓国経由で鹿児島に直行する。だいたい少なくとも5泊はするのだが、揖宿の砂蒸し温泉に行くというので、列車やバス時間を丁寧に教えていると、種子・屋久航路の高速船・ジェット・フォイルを利用して行くのだという、いままで思いもよらない観光行動には、正直驚いた。

幼いころ「サイエンス」で「活火山・桜島」を知り、鹿児島を訪れることを夢見て40年、やっとのこと夢がかなったと興奮する外国人。屋久島帰りに「かたじけない」と日本語で、オニギリを頬張る空腹のカナダ人。さらにまた「どこか、ひなびた温泉ありませんか?」と、日本語でのたまうドイツ人。どこか、変に面白い。

この鹿児島という土地柄は、なぜか人に、どえらいエネルギーを与えている。桜島の懐にあるマグマ溜りが、世界の人々を惹きつけ、そうさせるのかもしれない。わたしたち以上に日本のことを知る外国人は確かに増えている。松尾芭蕉の「奥の細道」を辿るオーストラリア人。シーマンさんのように「薩摩」を研究している人。やがて、わたしたちは「日本の文化」を逆輸入しなければならない「新時代」がやってきたのかもしれない。

ここでは、あと一人の男性を紹介しよう。ウルフさんは、自称「オオカミ」だと日本語でいう、そのオオカミさんはメルボルン在住のドイツ人で、日本庭園を自分の庭に作っているという。世界をまたにかける農機具のビジネスマンだと推測しているのだが、あと一年したら引退して、棲む場所を屋久島に決めている。当館を拠点にして、何度も屋久島登山をかねて棲家の下見にいく。或る時、彼の一人娘とムコ殿を英国から呼び寄せ、屋久島は勿論のこと、開聞岳、霧島の縦走を楽しんだのだが、その霧島縦走では一つの思い出がある。能面の翁(おきな)のように皺があり、しかし、少年のような好奇心のかたまりで、デパートで調達したツキアゲとビールを持参して「今夜は一緒に呑もう。ついでに日本語をおしえてくれ」とノートやら辞書のたぐいをテーブルに広げる、その澄みきった青い瞳と、赤銅色の顔はひとなつこい。

「霧島は雨が降って、なにも見えなったでしょう」とわたしが言うと、「いいえ、そうでもありません。霧雨が、熊笹(くまざさ)に降りかかり、露となって落ちるすがたは、比類なく美しかった」という答えがかえってきた。わたしは、旅の真髄を彼のこころに見たような気がした。「グローバル・ツーリズム」とは、極言すれば「こころのシェイクハンド(握手)」の思想ではないだろうか。国家・宗教等の違いをこえて、互いの道を譲りあわなければ、この「世界ツーリズム」の道はなりたたない。新世紀はテロリズムで開けたが、殺りくの歴史を繰りかえさないために、シェイクハンド・ツーリズムの力で世界を変えていくことは不可能なことだろうか。

下記はオオカミさんの俳句より

 屋久島や 水のなかから あらわれる 」 ウルフ

 

2月10日

「ニワトリがいましたよ。かわいいですね」と、ご近所のご挨拶。

「えっ、コケコッコの、いえ、庭の小鳥が二羽でしょう。どうやらメジロが増えましたね」とわたし。昨日、いつものように水浴びと日光浴をさせるために、篭を室外にだして、屋根の陽だまりにおいていた。三階の客室の掃除をしていると、なにやら騒がしいので、野良猫が跳んできたのではと不安に思い、非常階段から屋根を俯瞰すると、篭の天井にメジロが二羽とまり、篭のなかの尾の切れたメジロに「いまに助けてやるから。待っていろ」という風で、盛んに入り口がないかと跳ねまわっているのだ。カメラ、カメラは、どこだと階段を駆け下りるわたしは、結論からいえば、証拠となる写真撮影のチャンスを逃がしたのである。

いままで現れるのは、決まって一羽のみであったのだが、雨の日だけは、鶏冠(トサカ)のあるメジロ一羽が、一人二役(一羽二役というべきか)を演じているようだと、勝手に考えていた。彼等は青もみじの餌場に現れては餌をついばみ、物音がすると、さっと、ツツジの葉の茂みに潜りこむのである。まことに用心深い。そこでわたしは、近頃めったに開かない百科事典を書棚からとりだして、「めじろ」を探してみることにした。

東京都豊島区南部、むかし目白不動があった? ちがうでしょ」と、自分でボケどうするメジロ横丁の御隠居さん!

「・・・ごくふつうの鳥で、秋には群れをなして人里にも飛来する。なるほど、それからどうした。ツツチーチーと美声でなく、フムフム。五月から七月にかけて、低山の樹木の股にコケやクモの糸で巣を作り、4から5個の卵を産む。へえー、卵で孵(かえる)るのか」と妙に感心した。

参考「現代世界百科大事典3な〜(講談社)」より

 

2月11日 建国記念の日

8時30分、連泊のご婦人と看病に訪れた娘さんを、車(9人乗りのボンゴ)に乗せて、Y病院までお連れした。「昨日は7時間も手術に手間取りました」という。健康は、何よりも勝る!そこで、わたしは温泉へ行こうと、小野町の「お乃湯」まで車を走らせた。

ところで、夕べは、傑作な出来事が、わが宿に起きた。焼酎を一滴も味わうことのない家内が、或るテレビ番組で「焼酎のかほりを嗅ぐだけでも血行が良くなると聞いた」と言うので、あーそれでは、早速試してみなくちゃねと、買ってきたばかりの焼酎のフタを開け、わたしは生唾をゴクリとさせながら、湯飲み茶碗に少量の焼酎を注ぎいれ、それを電子レンジでチンをした。湯気が立ったその液体を、ガラスのティーカップに移し変え、受け皿をそえて家内に差し出した。焼酎のことでは散々迷惑をかけてきた私だが、「新種のアロマテラピー、とはね、ふーん」とついつい上機嫌になって、我が杯もなみなみと進んだ。が、果たして家内にどんな効能があったものか、どんな酒の肴を食ったものか、瞬時に思い出せない有様だ。

温泉の効能書に飲用は「慢性胃腸病、糖尿病、肝臓病、通風」に効くとあるので、「お乃湯」までやってきた理由が解かるでしょう。

「ミネラルを含んだ」温泉水を、宿のメジロの手土産にしてもち、身体の垢を落としたついでもあり、如月の白梅を観かたがた「梅ヶ淵観音さま」まで参拝に行ってきた。おみくじには、円満にすごせば吉、とでた。家庭は円満じゃなくてはいけないねえ。「あなたは、日本人には憮然としているが、外人さんにはいつもニコニコ接しているわね。どうしてなの?」。ここで、腹を立ててはいけない。「焼酎の効能が切れると、不機嫌になる」と勝手な理由を付けてみた。

 

212

朝、窓外のメジロから起こされた。しかも、小声で「きゅる、きゅる」と。枕元からさほど遠くない千代ツツジの植込みのあたりだ。

その小鳥の鳴き声が「おきろ、おきろ」に聞こえた。わたしの身体には、まだ酔いが少し残っていて、起き上がる足元がぐらついた。

「よしよし、朝ご飯の催促だね」と、どうやら小鳥の鳴き声が解釈できるようになってきた。そこで、昨日、観音さまのお参りの帰り道、無人販売所の銭入れのカン詰に百円を放り込み、持ち帰った小ミカン数個を切り分けて、玄関の格子戸を開けた。ツツジの小枝が揺れている。そしらぬ顔をして、青もみじの餌場にミカンを置いた。わたしは鳥寄せ名人のような、メジロの鳴き声で「どうぞ、召し上がれ」と擬音を発した。再び家に入り、戸を閉めて、小窓から様子を窺うと、「まってました」とばかりに飛んできた。あたりを警戒しながら、むさぼるように啄(つい)ばんいる。ミカンの皮が朝の光を照り返して、メジロの胸元が黄金色に輝いている。至福なひとときを小鳥に与えられたような心持がした。

 

213

「ふう、たいへんだったわね。間一髪、ご主人さまがクロネコに気付いてよかったわね」

「まったく同感だ。気をつけなくちゃ。石灯籠から花ズオウの幹伝いに、屋根のタケカゴまで忍び寄っていたなんて。俺はゾッと鶏冠立ったぜ。ところでさ、あの尾のない同胞のメジロさん、ちかごろ尾っぽが、色っぽく生えてきたようだね。はやく自由の身になるといのにね」

「ええ、それに、ずいぶん歌がうまくなったと思わない?ちょっと、チョット、わたしのミカンの分まで、ほんとに早口なんだから、ゆっくりお食べなさい。口の中に食べ物があるあいだはクチバシをつけちゃだめ、駄目。最近のあなた少し太り気味よ、いったい何をたべているの、わたしにかくれて。まあそんなにむくれて、ツツジのなかに飛んでいかなくても。じゃあ、そこでお話ししましょうよ。あなたがいない間に、おもしろい話をきたわ、もちろんカゴのなかのメジロちゃんからのメッセージなの、それがねえ大きな声じゃ言えないけど、小さな声じゃ聞こえない」

「なんだい、気をもたせやがって。あまり、くっついてくるな。いまから、羽毛の手入れをしなくちゃならいん。身だしなみが肝心だからな」

「あんた、まさか、ほかのメジロに!」

「おいおい、あまり焼餅やくな。その面白い話って、なんなんだい」

「しっ!あごひげのご主人さまが、玄関の屋根にのぼって、ツツジの下に居るわたしたちにまで、温泉水をかけてくださるじゃない。水鉄砲でも気持ちいいわー。最近、わたしたちのメジロの言葉がわかるみたいなの」

「まさか?」

「いいえ、わたしが鳴くからホントなの。お食事は、まーだ?催促すると、あの通りでしょ。それで、さっきの話だけど、窓の内のメジロが言うことには、ご主人さまのイビキで寝られやしない、それに毎晩、毎晩、芋焼酎のにおいで、息苦しいって。尾の千切れたわが命を、お救いいただいたご恩を感謝はしているのだけれど、宿の女将さんの苦労が良くわかると」

「それくらいのことは、たいてい、どこの家庭でもありきたりの

スズメの焼き鳥さ。みたところ、タバコの煙を噴くわけじゃなし。

パチンコに興ずるふうでもなし。焼酎呑んで、元気もりもり、いい気持ちで働いている様子じゃありませんか」

「ところがねえ、寝言と歯軋りがすごいらしいのよ。ときどき、聞くに堪えない歌までうたうとか。それで、家庭内別居になったらしいのよ。ねえ、おかしいでしょ。あなた、聞いているの!メジロの噺(はなし)、面白いでしょ」

「・・・」

「宿のなかのメジロがいうことに、その寝言でサノいうことに、宿のご主人さまはたいそう女に惚れっぽいとか、去年の秋のころかしら、ひょんなきっかけから、駅前の『スナック・チュン』に出入りするようになったという」

「なんだい、そのチュンとは、スズメの学校かい?」

「いえ、夜鳴き鳥の憩いの場所なのよ。そこに昭和三十余年の春生まれの歌姫がいて、その歌声にしびれたご主人さまは、昨年の暮れの一時を奥様にも内緒に、いわゆる寝静まった頃を見計らって通い詰めたことがあったという。そうした或る晩のこと、調子外れの歌声で歌姫の頬とほほ寄せて、小さな椋鳥(むくどり)がよく歌うという『シクラメンのかほり』を熱唱したのだったが、歌い終えて、その歌姫が、さのさ言うことに、お前様は、ご存知かえー?

あなた『シクラメン』の別名を『豚の饅頭(マンジュウ)』とは、これなんとする。インターネットとやらで、調べておくんなまし。そこで、早速、ご主人様はシクラメンの正体を知って驚いた。多少現実ばなれした浪漫的な性格のご主人様は、あまりのショックに高熱を発し、正月そうそう病院で点滴のお世話になったという。流行性感冒のせいかだったかもしれないが、実は、その晩は着物できめておったらしい。スナック・チュンの勘定を済ませ、宿に帰る途中、丑三つ時の植え込みに宿の大事な部屋の鍵を落として、こりゃあたいへんだと、這いつくばって、まるで我輩は犬猫であるかのように探していた。と、雨も降ってない晩なのに、なぜかそこあたりはグッショリと濡れている植え込みじゃったとさ、笑えるわ、まったく。宿に着いてから、小便臭い着物を脱ぎ捨て、翌朝はクリーニングに廻したというが、奥様への言い訳のほどは、寝言でも知ることは出来なかったとか。

シクラメンが『和名;かがり花』ならまだ美しい。だが、ご主人さまにとっての『別名:豚のまんじゅう』は、まことに幼少のころのトラウマに触れるショックであったのだ。かつて、『トンミー』という名の黒豚をペットとしていたが、家庭の都合で食卓に昇天したらしいのだ。が、真偽のほどは分からないと鳴くのですよ、まったくもう、宿の中の小鳥は、ちゅるちゅる、ちーちー。そして最近、宿には目黒に、目青、目赤など頻繁に出入りしているみたいだけど、

目白が一番綺麗よね、そう思わない? 今年三月ちゅージュン、遥かニューヨークというところから鹿児島まで、屋久島に渡るついでだけど、宿のメジロを見に来るというメールが届いたとか、尾の無いメジロが近ごろ五月蝿(うるさ)く鳴くだよ、お尻がむずがゆい、尾っぽの調子を早く確かめたいと、きょきょ・・じっじつ」と。

 

めじろ: Japanese white eye(s)

 

214

 鹿児島・県下一周駅伝・肝属(きもつき)チーム宿舎。若人よ、一魂(いっだましい)をいれて、きばいやんせ(がんばろう)。

215

午前3時からの朝食(駅伝選手のための)用意は、年を追うほどにきつくなるが、おいどん、きばいもそ(わたしたちも、頑張りましょう)。

 

「 いつまで つづくやら、このいのち この宿 」 宗眞

 

216

ノルウェーの女性2名東京より到着、「ノルウェーの首都オスロは、鹿児島市の人口とほぼ同じなのよ、ご存知?」彼女たちの日本語がとても上手なので、好い加減な日本語で日常を済ませている自分の反省となる。夜、「居酒屋・でんすけ」まで別のカップルを連れて行き、焼酎を飲ませてみる。アルコール度が「強い」と異口同音。グビッと呑んでみる、「どこが?」と、いぶかしがる自分。

 

1.『居酒屋・でんすけ』:インターネット英文記事参照(Simon Lowe;サイモン・ロー記述);「Japan Travel Kyushu-Bed and bath under the volcano

2.以前にも、「文化の逆輸入」で言及したことがあるのだが、日本の伝統文化を愛している外国人には、尊敬の念を抱かずにはいられない。この日、投宿した二人のノルウェー国籍の女性は一人が東京在住の既婚者、もう一人は独身である。彼女たちの旅のあり方はいつも自由気まぐれらしい。今回も、鹿児島に着いてしまったら、なんの予定に縛れることはないし、観光目的をも持たない。都合、二日の短い滞在ではあったが、ふらりと街にでかけ、たまたま神社の境内か公園かで、古着市のような蚤の市に遭遇して、紋付の着物やら、鯉の滝登りだの背中にかざった幼児の着物を数千円で購入したという。その女性たちは、もちろん日本人に着付けを習い、毎週たった一回の講義で、約3ケ月間で着物の着付け・折畳み方を習得したという。

日本茶が欲しいというので、茶を盆で運んで部屋にあがると、桜島の温泉で身体が温まった彼女たちを見て「なんとまあ、お美しい。まるで、日本の夜桜のような」と正直なところ、部屋にひろげた戦利の着物の数々を拝見しながら、「日本はいったい、どこにあるのだ」と、心中つぶやくのだった。

 

「偶然の 出会いこそ 素晴らしい 旅なればこそ」 宗眞 

 

217

しおかぜストリートからメジロ横丁を、通りかかる一人の見知らぬ御爺さんが、玄関のまえを清掃している私に声を掛け、「庭木にメジロが棲みついていますね。とても可愛いですね」と言いながら路地裏を抜けて行った。

つつじの植え込みを、目を凝らしてみると、葉の茂みに隠れた細い枝に二羽のメジロは身体を寄せ合って、暖をとりあっていた。

(どこのおじいさんだったのだろう?)と路地裏を探したが、姿の影すらなかった。(たぶん、古時計の修理にでも行った帰り道だったのだろう)と、ひとり笑いした。

今年(平成15年)睦月17日、「尾の無いメジロとの運命的な出会い」が、やがて自分の人生を変えていくような予感がしてならない。

鳥篭にいれて一ヶ月が経過した。そのメジロの尾の長さは目測で約2センチ5ミリ程度まで伸びた。が、まだ尾の先は、まるで使い古しの茶せんの穂のようである。

最近、自分は「運命」について考えるとき、「運命」とは「情」というものの「カオスの世界」ではないだろうかと思い始めている。

そして「意思と念」とが「運命」の方向を決定づけるのではないだろうかとも。その目に見えない「運命の糸」を目の当たりにみるような出来事が、かつて在った。

わたしの話は飛躍するかもしれないが、観光にみられる「ホスピタリティ」の原点を自分は「種子島」に見出す。そして、「メジロの宿帳」をご覧の皆さんは、どうぞ「ドラメルタン号」を検索してみてください。

異国の難破船の乗組員を手厚くもてなす心、それを「ホスピタリティ」と言わずして何というだろうか。

数年前、その英国帆船ドラメルタン号の乗組員の末裔のひとりで、英国海軍を退役された「D・ダフティさん」というが、南種子で開催された英国際(‘98)の行き帰り、当館に宿をとった。

ダフティさんが南種子の「花峰小学校」の小学生や御父兄に贈る英文の祝辞を日本語に翻訳したり、また健康を病んだ彼を気使い、東京にいる知人への連絡をかってでたりもした。彼のアラビア文字ふうの英文筆跡を誰をも読み解くことができない。ただひとり、わたしを除いて。まあ、たまには、自慢してみるのもよい気持ちだが、そのころ、わが宿には、大学卒業はしたものの、これといった就職先が決まらない長女が、苛立ちの日々を送っていた。ダフティさんの東京の知人と、FAXや電話のやりとりをするうち、長女の希望していた或る業種の代表取締役であることが分かった。わたしは、藁(わら)をもすがる気持ちでその方に手紙を書いて、娘のことを頼んだ。それから先は、まるで手繰られる運命の糸を見るような慌しい出来事の連続だった。

種子島は、人助けの島だといわれる。わたしのご先祖も命を助けられた。祖父は中学生のわたしに「島に足をむけて寝るなよ」と諭した。祖父・弥十郎は平成元年十一月十三日、享年九十四歳。祖母・さと は平成三年十月十九日、八十八歳で大往生した。

 

218日(月)

 

出会いは、人間同士だけでなく、生き物、自然、歴史や文化、言葉との出会いなど、ありとあらゆる出会いが、世界の人の数ほどある。

外国人を受け入れる小宿の主となって、さまざまな出会いがあった。いまから十年も前になるだろうか、わたしは旅館を一時休業して、家族を海外旅行に連れて行く決心をした。その決意をもたらした友人こそ、おたがい「兄弟!」と呼び合うオーストラリア人で、名前を「リー・ジェニングス」という。当時、南オーストラリアのビクター・ハーバーという美しい街で小学校の教師をしていた。

或る年の冬、一人娘のミカエラちゃん(いまでは大学生だが)を連れて、鹿児島までやってきた。その目的は、観光というよりも、ホームステイ先のホストとして、ひとりの学生と鹿児島で再会をしようというものであった。しかし、その学生の肉親が危篤状態で、病院を離れることができない。再会を果たせないまま、彼らの滞在がのびていくうち、いつの間にか、わたし達の子供たちと大の仲良しになってしまった。わたしもまた、毎晩のごとく焼酎を酌み交わすうち、青い目の豪人とこころの通い合うものを感じた。彼は世界六十数ケ国を旅したことがあるという。或る晩、その彼が日本語を学ぶテキストを読んで、わたしに言った諺(ことわざ)がある。

「 井ノ中ノ蛙 大海ヲ知ラズ 」、まさに(そのとおりだ。いたいところを、突きやがる)と、長い月日、わたしの脳裏にこびりついて離れなかった。

ここは旅行記ではないので、とりあえず簡単に締めくくると、三週間ほど宿を閉め、家族五人、シンガポールのYMCAに一週間滞在後、

オーストラリアのリー・ジェニングスさんを訪ねた。

その数年後、彼は再び、娘・ミカエラちゃんを連れて、鹿児島の霧島の貸別荘地で約一ヶ月の長期滞在をする。ひとつふたつの歳の違いはあることだろうが、彼の年齢も知らず、奥様にお会いすることもなかった。いままで彼だけでなく多く外国人のプライベートな問題に触れることはあまりなかった。りーさんにしても「奇妙だな」と想うことが度々あった。それは彼の口からではなく、ーさんを介して南オーストラリアで知り合った友人・グラハムさんのメールで知ることとなった。「あなたは奇妙に感じていたかもしれないが、彼の奥様は長い間、ハンチントン病(舞踏病・染色体異常)の闘病生活にあったが、やむなく彼らは離婚を決意した。りーはヘレンという女性と再婚して、新生活をスタートすることになった」。

昨年、クリスマス・プレゼントとして、著書「Shiokaze Street」一冊をグラハムさんと彼の愛妻・リンダさんに贈呈した。その本の最後のページに、わたしがあなたに述べたい次のような言葉がある。

I, Shinichi, would like to say to you that strangeness is the stuff of reality!

直訳すると、「奇妙は、リアリティの詰まったものである」。なんだか意味不明だが、さらに妙訳するならば「事実は小説よりも奇である」ということであろうか。

昨年の十二月二日、リー・ジェニングスさんは日本を一度も訪れたことのない新妻・へレンを伴って、ヨーロッパでの長期旅行から帰国する途中、ローマ空港から成田・国際空港、そして羽田から福岡空港へと降り立った。夜の空港まで、歓迎に出迎えたのは言うまでもない。博多のホテルに泊まり、翌朝、鹿児島まで車で案内かたがた、東洋のベェニス・水郷のまち「柳川」に立ち寄った。川下りの船頭が「あの沈んだボートは、タイタニック号です」と、ユーモアたっぷりといったものだが、結構笑えた。

お堀の川面に垂れ下がったチロリアンランプ(和名:浮釣木うきつりぼく)の花が、なぜか印象に残った。

両親の隠居の前庭には、浮釣木の花が華やかに咲いている。その花の蜜を、メジロが吸いに飛んでくるという。

219

今朝は、二回ほど、故人の面影を思い出した。しおかぜストリートから、城山へ登る遊歩道のあたりを車で通過しながら、そしてまた泉町のガソリンスタンドまで灯油を補充しに行ったとき、在りし日のハンス・ロックさんをふと思い出した。

「彼の命日が近いせいだ」と独りつぶやいて、茶室に座り、コーヒーを飲みながら、亡きハンス・ロックさんの思い出に浸っている。時折、鳥かごのメジロの鳴く声が、物悲しく聴こえるのは、感傷にすぎるだろうか。

ガソリンスタンドの隣に建つ「鹿児島港湾合同庁舎」の4階に

入国管理局鹿児島出張所(Kagoshima immigration branch office)がある。阪神大震災の起きた次の日、1995118日、わたしは彼を車に乗せて、そこまで案内した。観光ビザの日本滞在期間が三ヶ月を過ぎるので、延長を申請しなければならないというのだ。それから市役所に出向き、外国人登録カードを取得しなければならない。そのためには、どうしても日本での連絡先住所が必要であるという。そこで、わたしはどうぞ、わが宿の住所である易居町(やすいちょう)1−18を明記してくださいと申し出た。それから一月後、福岡で自ら命を絶った

飛騨高山から鹿児島のわが宿にチェックインした日は、19941129日の午後4時過ぎであった。「四国に行って、また帰ってくる」とチェックアウトしたのが、1995217日未明。観光目的でトータル71泊の長期滞在であった。滞在期間中、奄美大島や揖宿へも足を伸ばし数泊した。わたしは彼がいつもの笑顔で無事に帰ってくるものと信じていた。彼のボストンバッグは部屋に残されたままだった。同年221日の早朝、博多の警察署からの電話で、「ドイツ人・ハンス・ロック・65歳の身分証明書があなたの宿の住所になっていました。それで、すぐ連絡をとることが出来たのです。・・鉄道自殺でした。目撃者が何人もおりました。どんなお人だったのでしょうか?なにか変わったことでも?」・・・

 ハンス・ロックさんの風貌は、ビア樽のような体型で、銀髪は薄くなり、ほがらかな赤ら顔に白い口髭と顎鬚が似合っていた。性格は温厚で、礼儀正しく、一見、ショーン・コネリーの老後のようにみえたものだが、或る時、城山を越えた薬師町のあたりで、車窓越しに、ロックさんが歩いている姿を発見して、思わず笑いを噴出したことがあった。それは、動物園のシロクマが檻を抜け出して、頭のうえに鶯をのっけて、街なみを闊歩しているように、わたしの目には映ったのである。たいてい朝夕の散歩には、リュックとウグイス色の鳥打帽を装備していた。どうやら、白熊のような鬚と、ハンチング帽子がウグイスにみえたようだ。

或る日、ロックさんは二階のロビーに座り、彼自身の経歴をしゃべる機会があった。「自分はもとジャーナリストで、世界を旅してきた。日本へは五度目の旅行である。日本人の友達も多い。鹿児島は今回が初めてだ。わたしには離婚暦が二回、それぞれに一男一女を儲けた・・」・・その程度の個人的な話題であった。

しかし、彼が亡くなったあと、信じられないほどの涙を流す経験をした。目は充血して、体中が干しあがるのではないかとも思った。愛するものを失った訳でもないのに、なぜ、これほどまでに自分は旅人の死を悲しむのか、自分の魂を揺さぶるものは何か、その答えを導きだすために、わたしは自分という愚かな人間を知ろうとした。平成7年の雛祭りの日から同年四月十八日まで、涙に暮れながら

原稿用紙にむかい、ハンス・ロックの魂に自分の魂をぶつけてみた。

桜島のマグマを噴き上げたような二百十枚の原稿であった。題名を

『残心』とした。そして、運命の糸は手繰られた。

東京・柴田書店の専門誌「月刊・ホテル旅館」の「19957月号」から翌年の「1996年3月号」まで9回連載された。その未完の私小説「残心」を母体として、英文翻訳を試み、遅々とした編集を重ねた。そしてようやく、昨年の六月、私家版「Shiokaze Street」に昇華させたのである。

ハンス・ロックさんの一番の親友であったニューヨーク工科大学のユージン・ケリー哲学教授の出現、そして彼の手紙によって、こころに生じた疑問「奇妙・(Strangeness)」を解くことができた。

手紙の掲載を、こころよく承諾していただいたので、明日は、ケリーさんの手紙の一部を紹介してみようと思う。

 

220

 夜明け前、春一番が宿の窓ガラスを叩いたように思うのだが、目覚めきらない朦朧とした私は、坪庭におちたミカンの皮などを拾い集め、しおかぜストリートのゴミ・ステーションに塵袋を捨てた。

朝日の光は、幽かに春の匂いを振り撒いているが、風にはまだ冷たさが残っている。メジロ横丁に踵(きびす)をかえすと、しおかぜストリートの街路樹の陰のあたりから、二羽のメジロが飛び出して私の頭上をかすめ、路地を先回りして、青もみじの小枝に停まった。彼らはわたしの存在を認めているのだと思うと、薄紅色のゴマ粒ほどの青もみじの新芽を見上げながら、「よし、よし、そこで待っていろよ」と声をかけ、そっと宿の中に入り、ミカンの果肉を切り分けてから、ふたたび枝にくくりつけた竹皿のうえに果肉を載せた。

既に、小鳥たちは飛び去っていた。ツツジの葉の茂みにも、メジロのいる気配はどこにもなかった。

 

障子にうつるヒヨドリの影を睨んで、

「 ひよどりの よこどりするか  影法師 」 宗眞

 

ところで、ハンス・ロックさんというお人は、どういう心の旅路をたどったのか、ここに明らかにしておきたい。もし、彼に心当たりのお人が日本に居るならば、どうぞメールでお知らせ下さい。

 

Shiokaze Street】の和訳(一部)

・・・『・・・四月の雨が、宿の青モミジの火山灰を洗い流していく。ハンス・ロックさんの旅立ちから三ヶ月が経った。彼はまだ、わたしのこころに、神秘的な存在として残っている。』

『或る日、突然、わたしは、その神秘の正体を悟った。』

 

 

1995年(平成7年)519日付・ケリーさんがしたためた手紙より。

『日本の宿から送り返された一通の手紙を、開封しないまま、机の片隅に放置していた。先週、私は書類にまぎれていた封書を捨てようとした。が、ふと何気なく、自分の差し出した手紙を開けてみることにした。そこには、ハンス・ロックの死を知らせるメモがあった。私は、驚きのあまり声を失った。もし、私が手紙を捨てていたら、親友の死を知ることは決して無かったことでしょう。もちろん、彼の娘や友達にも連絡を取りました。あなたのメモには、鉄道自殺とありましたが、彼の死について、もっと詳しい情報をお知らせ下さい。彼は、なにかメッセージを残しませんでしたか、亡くなった状況はどのようなものですか、汽車から飛び降りたのでしょうか? それとも、・・・』

 

19957月9日付・ケリーさんの手紙より。

ナカゾノさん、FAX ありがとう。ここに、二枚の写真を同封いたします。19913月、ハンス・ロックと一緒にカナダのモントリオールのチャイニーズ・レストランで写しました。彼と写した写真は、それが最後のものです(昨年6月下旬、南日本新聞の夕刊に写真が掲載された)。私達が出会ったのは、1984年、中国とロシアに旅をしたときでした。翌年、彼はニューヨークの私の家庭を訪問しました。そして、一年後、ドイツのケルンにあった彼の家で再会しました。

 それから、1988年、彼はニューヨークにやってきて、私達は南アメリカへ長期にわたる旅行をしましたよ。ブラジルやペルーなどをね。彼、ハンス・ロックは世界中を旅していましたからね、よく長い、長い手紙をもらいましたよ。

 ところで、私自身は、54歳で、ニューヨーク工科大学の哲学教授ユージン・ケリーです。家内はチェコ出身で、1968年に結婚しました。

ハンスと話すときは、いつもドイツ語でした。彼と同じように、日本が大好きです。何度か、貴国を訪れたことがあります。二年前、家内は初めての日本でしたが、天橋立で銀婚式を祝ったものです。

もし、日本をふたたび訪れる機会があれば、あなたの宿をお訪ねすることでしょう。

 ハンスはポーランドの国境近くのフランクフルトで生まれ、ナチ・ドイツで育ちました。15歳になると、兵隊にとられ、ヒトラーのために空恐ろしいほどの猛訓練をしたと、彼に聞いたたことがあります。翌年、終戦と同時にアメリカ軍の捕虜になりました。やがて、ハンブルグへ引っ越して、母親と暮らすようになります。当時、彼の両親は離婚しておりました。彼の父親は戦時中、鉄道員でした。ハンスは大学には行かず、独学でジャーナリストになりました。新聞社やその関連の仕事をしておりました。彼は結婚して、娘をひとり儲けます。その後、ハンスは離婚をします。それからまた再婚をし、男の子を授かります。芸術家で写真家でもあった新妻とのイタリアへのハネムーンが、彼の人生で一番しあわせだったと聞きました。彼はケルンに引越し、オランダの国境に近いクレーブ(Kleve)という町に居を構えます。そこでは、あまり幸せではありませんでした。二度目の結婚も、やがて破局を迎え、裁判沙汰まで起こしました。そのことは、彼にとって精神的にも肉体的にも打撃を受け、タイプライターに向かう気力さえありませんでした。そこで、自分の仕事を変えることにしました。知的な障害をもつ青年達に、自宅で印刷の仕事を覚えさせ、自立させるというようなことです。私は娘を連れて、一度、仕事場を見学に訪れたことがあります。彼等はハンスという教師を得て、ほんとに幸運でしたよ。

 そのハンスが、55歳のとき、養老年金の全額支給を得て、ドイツ国を離れます。彼は残りの人生を、アジアかどこかの国で仏教の寺院で暮らしたいと願っていました。しかし、ドイツ人の彼を受け入れる場所はどこにもありませんでした。数年間、マレーシアが気に入り、そこでの暮らしぶりを手紙で知らせてきたものです。

 ところが、現地の住民と何かのトラブルを起こし、自殺未遂をしようとして、警官に止められたというが、私には彼の行動が理解できませんでした。彼は世界中を旅してあるきました。ええ、アフリカでさえもね。どこか、安あがりの隠居の場所をさがして・・

 日本は世界でも物価の高いところなのに、昨年の十一月、「日本に死に行く!あと二ヶ月もしたら、有り金も尽きる」というハンスの手紙を、私は其の頃、ドイツのミュンヘンに居て、それを受け取ったのです。驚愕した私は、すぐさま、返事を書きました。

彼の返事には、「人様のお荷物になって、ドイツで生き恥をさらすのは否だ。わたしはむしろ死を選ぶ」いう悲壮なまでの決意だった。この世とあの世、それぞれに違う世界に住む私達だが、せめてアジアのどこかに安住の地を見つけて、彼と再会できたらどんなに幸せなことだったろうか。そうした日はもう二度と私の目の前には現れない。私は大事な友達を失った。二人して、歩いて 歩いて、話して 話した、愉快な日々はもう手にすることは出来ない!

 彼は非常に繊細で、思慮深い人間でした。ドイツの詩や音楽、人生をこよなく愛していました。一度、ニューヨークの仏教ミュージアムを訪れたことがありますが、日本や中国の偉大な芸術に示した彼の博識には、そのとき恐れ入りました。彼のような人間に出会うことはもう無いでしょう。

 わたしに与えてきたような印象深い感銘を、あなたも同様にハンスの人柄から感じとったとしても、驚くにあたいしない。しかし、あなたが、彼について物語りたいものは何だろうか。それにしても、友達や家族から離れ、彼は思うように生き、思うがまま死んでいった。人生とは妙なものだ、と私は思う。

 

1996年99

Dear Mr. Nakazono !

私と家内は、先週末、クワラルンプールから帰国した。マレーシアを旅する間、ハンス・ロック在住のころの、彼を知る人達と出会いました。キャメロン・ハイランドでホテルを経営している夫婦と、以前ハンスが滞在していたホテルの近くで、レストランを経営しているドイツ人達だが、彼等が異口同音に語ることは、ハンスはいつも呑んだくれては、騒ぎばかり引き起こしていた。ホテルの部屋にウィスキーの瓶を持ち込んで、毎晩のように深酒しては、ふらふらと、千鳥足でよろめいていた。ナカゾノさんの宿では、どうでしたか?呑んでいるうでしたか? (・・・ああ、まるで私自身の愚かな姿を観ているようではないか!・・それにしても、滞在期間中の、ハンス・ロックさんの物静かだったこと。とこどき部屋からは笛の音を耳にすることがあった・・・。いま想い出したが、炬燵の上には、ミニチュアの仏像があった。たぶん、マレーシアで手に入れたのだろう・・・)

ハンスと一緒のときは、ビールグラス一杯ていどの飲酒でしたが、酔っ払っている姿など見たこともなかった。

酔っ払いのハンスは、何かでかいことをやるだと大口をたたいていた。誰も信じたものはいなかったけど、おかしなことにランカイの街でモスラム女性にちょっかいを出したとか、やったのやらないの殺すの殺さないのと現地で警察沙汰になったと、生前の手紙で言うのだが、果たしてその証拠は無かった・・・。

今年の7月でしたね、鹿児島のあなたに会えて、忘れられない時間を旅館で過ごすことが出来ました。あなたのオーストラリアの友人たちと(リー・ジェニングスの友達、リンダ と グラハムさん。彼らは、早口でしゃべるケリー教授の英語の半分も聞き取れなかったと、あとで告げたものだったが、この私は一割だっただろうか)、おしゃべりしたことや、あなたとふたりで鹿児島の郷土料理を食べに街に繰り出したことなど、特に想い出します。家内にまで、数々のお土産ありがとう。どうぞ、皆さん、お元気で。

敬具  ユージン・ケリー より

 

221

「 無残や  旅路の果ての  青い空 」 宗眞

竹篭のメジロの鳴く声が、あまりに悲しげなので、放鳥を決意した。

「 メジロも  読経するか   一合庵 」 宗眞

お雛様の飾りを済ませ、午前11時のカウントダウンで、茶室のガラス窓を開いて、宿のメジロを放した。何ということだ、十メートルも飛べやしない。飛び降りたところに、クロネコが待ち構えていた。思わず、ぞっとした。野良猫を追い払い、小鳥に声をかけるが、もちろん通じるメジロではない。

「 雪柳  ひふみよいつむ  空しいよ 」 宗眞

 

そのうち、ご近所の南天の幹にぶら下がり、そこからまた、

まるで小走りするように、近くの駐車場のゴムの樹に飛び移った。

117日から、小鳥を世話しつつも、空飛ぶ自由を奪ってきた私は、小鳥の行く末を考えると不安でならなかった。キャンプ用の折りたたみ椅子を路地中央まで運んで、十二時から二時まで昼食もとらず陣をとった。野鳥のなんと、たくましい姿であることか、それにひきかえ、篭の鳥の貧弱さよ。情けをかけた自分がわるいのか、メジロの鳴く声が悲痛に聞こえてくる。南埠頭に屯(たむろ)している数十羽のトンビがメジロ横丁の上空をクルクル廻っている。日頃、あまり見ない光景に、残酷な結末が脳裏をかすめる。生きている、それだけで奇跡だ。どうか、生き延びる道を与えたまえ。わたしは、祈りをこめて、口笛を鳴らし続けた。

夕方、空虚な鳥かごを、視る。春は、これからだというのに逝く人もあり・ ・ ・ 月日は百代の過客にして、行きか年も又旅人也。 

 

「 行く春や  鳥啼き    魚の目は泪 」 芭蕉

 

鳥の消えた坪庭に闇が迫ろうとしていたとき、両親の隠居の前庭に咲く浮釣木のあたりから、ひときわ澄み切った宿のメジロの一声が、鋭い光を放った。

 

「 桜の花を 見ずして死ぬな  喝っ 」 宗眞

 

 

新時代のインターネット文学を模索してきました。中薗宗眞『メジロの宿帳』のご感想は、いかがだったでしょう。ご愛読まことに、ありがとうございました。  

 

Eメール : shindon@satsuma.ne.jp